2005年04月29日

JRの尼崎の事故に関して

悲しいし、ひどすぎる。
この事故で亡くなった方々のご冥福をお祈り申しあげます。

ところでこの事故に関しては、海外ではここまでのダイヤの運行の正確さを求める日本だからこそ、というとりあげ方をされている様子。

27日付ニューヨーク・タイムズは1面で「日本の事故、定時への強迫観念が元凶か」との見出しを掲げた。記事は、電車が約1分半遅れていた点について、日本以外ではおそらく、定時運行とみなされるだろう」との見方を示した。
(ヨミウリオンライン)
とか、
フランクフルター・アルゲマイネ紙は、事故を起こした列車が直前の伊丹駅で停止位置を直したための「90秒の遅れ」が、日本では異常と見なされると指摘し、その遅れを取り戻すために速度を上げたのが事故の一因、との見方を紹介した。
(同上)
と書かれています。

実際、私も毎日通勤電車に乗っていて不思議に思うのが、「この電車は(ダイヤよりも)5分遅れております」等というアナウンス。だいたい、2〜3分とかせいぜい5分くらい待てばやってくる電車で、ダイヤどおりではないということを一体何人の人が気にするでしょう。気にするとすれば、「ダイヤどおりかどうか」ではなくて「駅間の所要時間」くらいです。「あー事故っちゃったのかー、じゃあいつもより10分くらい長く(目的駅に着くのが)かかるのか」といった程度でしょう(もちろんそれでも仕事にものすごく支障のでる場合はイライラする人もいるでしょうが)。

「その程度」と言ってしまうと身も蓋もないかもしれませんが、
また、同社(JR西日本=筆者注)は02年から定時運転確保のため、日常的に遅れがちな列車を対象に1秒単位で遅れなどを報告させる取り組みを年5回実施。
(asahi.com)
なんてことが行なわれていたと聞くと、同じ日本人といえど、それはさすがにいきすぎでしょう、と思うのです。

そこで思い出すのが、先日の座談会で出ていた話で、「日本は仕事のうえで、どうにかして工夫しよう、良くしようとするものである」ということです。ひとにぎりの優秀な人材が決定をくだし、それをその他大勢の人がただ遂行する(それぞれの現場での工夫はなされない)という米国とは違い、日本は「どうにかできないか」(プロジェクトXのような話ですね)とするものだと。そこには、終身雇用が基本にあり、同じ職場、同じ環境のなかで同じ仕事をし続けていたらそういった取り組みが出てこざるをえないのでしょうね。

JRのなかで起きていた取り組みが、普段の私たちの生活を支えていたものではあっても、そこで働く人に過度の負担をもしも強いていたとしたら、そこまでして私たちは生き急ぐ必要があるんだろうか? と考え直す必要があるでしょう。


posted by sumie at 15:25| Comment(2) | TrackBack(0) | 世の中の動き | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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